「全訳と解説」の最新刊


この秋は新刊刊行とイベントが続きましたが、ようやく一段落しました。

10月に、「全訳と解説」シリーズの最新刊、

ヴェルクマイスター「音楽の逆説的談話」(1707年)

アンドレアス・ヴェルクマイスター(著)
村上 曜(編著・訳)

を刊行しました。


このところ、お客様からの注文をあちこちの書店から頂いております。
ご注文下さった方、本当にありがとうございます。

いつも小社の本はお高い値段で申し訳ないのですが…
制作費が高騰するなか、刷部数がそもそも少ない。
どうかご賢察下さいますよう。

ヴェルクマイスターの文章とともに、村上曜さんによる詳細な訳注が、面白すぎていろいろツボにはまります。

ヴェルクマイスターはいろんな話題を取り上げて、時には「口角泡を飛ばして」熱く語っていますが、なかでも「熱さ」で突出しているのは、
・ドイツ・タブラチュア譜への偏愛
・異常なほどの線譜嫌い
ではないでしょうか。

ほとんど論理が破綻している…
 
でも、全体を通読してからこの箇所に戻り、改めて思ったのは、それだけ「音楽の未来」に対する危機感が強かったのだな、ということです。

読みながら、「線譜こそ、いわゆるクラシック音楽のグローバル化に道を拓いたシステムでは?」と思っていました。
印刷の技術としても、シンプルで明瞭。
歴史の歯車がぐっとそちらに向いていくのも、必然かと。

でも、ヴェルクマイスターがそれを理解できず、つまり「先見の明」が無かった、というのとは、どうも違う気がしました。

懐古趣味?
情報が限られていた「田舎の」音楽家の視野の狭さ?
それとは何か異質なこだわりよう。

そうして読み進めるうちに、こんなふうに感じたのです。

もしかしたら、まさにグローバル化への警戒感、そこで失われるものの大きさを、ヴェルクマイスターは本能的に察知していたのかもしれない。
「そっちに行ってはいけない!」と警鐘を鳴らさずにはいられなかった、のかもしれない。


なにかものすごく連想が飛躍するようですが…

日本古来のさまざまな音楽が、明治時代に「西洋音楽」の楽譜や教育法が流入した結果、独自の繊細な表現を失った。
音を聴き・見分ける「耳」も「眼」も西洋化して、それ以前と以後では、似て非なる音楽になった(と言われている)。
そんなことを思い出していました。

同じような激変が、ヴェルクマイスターの生きたこの時代に、起こっていたのかもしれないです。
そしてバッハが登場する… 

後半のいくつかの章について、編著・訳の村上曜さんは、本書の「白眉」と語っておられました(音楽史研究会にて)。

わたしもまた、ヴェルクマイスターの本懐と言える章だなと感じつつ、読みました。
文章としてはまったく激していないのですが、この静かな迫力は何だろう?

田舎の、独学の、教会音楽家としてのみ生きたヴェルクマイスター。
そんな人が、亡くなるその時まで多くの本を出版し続けられたのはなぜ?

…読者がいたから。

当時の音楽家(多くは教会音楽家)が影響を受けずにいられなかった理由が、最後の数章で、なんとなく腑に落ちたのでした。

調律法に名のみ残すヴェルクマイスター。
その人の肉声に触れることができた思いで、とても幸せな仕事でした。

最後にひとこと。

1707年の本ですから、翻訳はたいへん困難な作業です。
もしかしたら誤りや誤植やら、あるかもしれません。

完全無欠の本はなく、ともかく一冊、出すことによって、音楽活動も研究も、一歩、進む。
本はそのための、一つの踏み石(step)と思っています。

これからも、良き踏み石を出版していけますように。

(片桐文子 記)